日本大学藝術学部剛柔流空手道部OB会掲示板NUGK OPINIONS

NUGK OPINIONS

~ 空手という武道を通して何を最終目的とするか ~

田中 元和Genna Tanaka

≪ 5.「唐手」と「空手」の違い ≫

(3) 技術と言う点において


(3) 技術と言う点において

3.技術と言う点において
...例として、体操競技では1960-70年代のオリンピックや世界選手権において日本の男子が団体総合10連勝や個人総合優勝などで世界の体操競技の頂点に君臨して、「体操ニッポン」と謳われていた時代があった。
  遡って、1956年(昭和31年)のメルボルンオリンピックでの小野喬(種目別鉄棒)が日本体操界初の金メダル獲得して以降、日本は個人総合・種目別で金メダルを多数獲得して、当時の日本男子体操はまさに世界で無敵と言われていた。
  当時の小野喬選手の鉄棒は前方2回宙返り着地などが技としての目玉であったが、現在の鉄棒は、片手のみの逆手・大逆手回転や前方浮腰回転振り出し倒立や伸身新月面宙返り、鉄棒を越えて着地する後方2回宙返り下り等など、難度の高い多彩な技で構成されている。メルボリンオリンピックの頃の技をA難度としたら現在の技はD難度以上に相当し、今日においてはH難度の構成となっている。これを見ても1956年当時を現在の比較対象に入れることすら出来ないほど現代はすさまじい進化を遂げているということだ。


  日本人の平均的な身長
  明治末期より、日本人の平均身長は世界にも類を見ないほどの驚異的な伸びを示している。ここ100年で、20cm近く身長が伸びた日本人だが、1935年当時の陸上における吉岡隆徳の身長165cmに対して、現在のウサイン・ボルトが195㎝であることから、日本人と外国人を比較してみた場合においての身長による世界と日本の差は歴然としていることが分かる。

  世界の平均身長で一番高いのは、男子でオランダ人の181.7㎝、女子でアイスランド人の168.0㎝。これに比べて日本人の平均は男性で171.6㎝、女子で158.5㎝となっている。ここでも、世界と日本の差は身長差でもかなり違うことが分かる。
また、20歳における1902年の頃の日本人(明治の頃)男性で160.7㎝、女子で147.9㎝(北海道大学統計)と、現在(平成20年以降)の日本人男性で171.6㎝、女子で158.5㎝を比較してみても、1世紀余りで日本人男女に限ってみても約10㎝伸びていることになる。

  上記の例からして、発祥当時の沖縄唐手から現代の空手では、身長やパワーなどで歴然とした差が出ていることになることから、空手界そのものが『唐手』から『空手』に至っては著しい進化を遂げていなければならないということになるはずだ。


では、空手界は発祥当時の唐手から現代の空手になって進化があったのかどうか?
  上記の例によるスピードやパワーや技術面、それに身長における進化を、発祥当時の沖縄唐手と現代空手に置き換えて比較してみた場合においては、現代空手が沖縄唐手よりも格段に進化を遂げていなければならないということになるはずだ。
しかしながら残念なことに、今の空手界は武士道精神を受け継ぐという精神や内面の向上を図るという点においては今も昔も普遍的であるとしても、スピードやパワーや技の構成などにおいては唐手(古典)から空手(現代)に代わって進化して当然のことだが、残念ながら、それほどというかほとんど進化をしていないと言えることだ。

  『それは何故か』と言えば、流派の開祖らが開発した古典の武術というものを継承してきた現代の師範格が、これを流派伝来の極意と称して現代においても変えることなく受け継いできたことによるもので、より発展的に改良改善することをタブーなこととして、今日までそのままに継承するに至ったことに原因がある。
   
  過去の空手の歴史を軽んずるわけではないが、唐手(古典)と空手(現代)を並列で比較して同等に扱うことは進化という時計の針を沖縄の唐手から現代の空手まで長い間止めてしまっているということを意味している。
  沖縄唐手から空手を通して変わらないでいいのは、先に述べた通りに精神的なものの向上や礼儀作法においてであり、これを武道精神としてそのまま継承しても何ら不思議でもなく違和感を持たない。しかし、沖縄唐手の頃と現代空手における日本人の体格やパワーなどを比較した場合においては他競技の例からしても然りで、発祥当時と現代では比較の対象にならない程の進化の違いがあるはずだ。

...この例からして、沖縄唐手の「型」そのものは、空手においては伝承古典武術であるのだということを空手流派の師範格が認識して、これから空手を志す者たちに対して、「型」は伝承古典武術の芸術であるということを知らしめる必要があるということだ。

...あらゆるスポーツおいて、過去に何十年もかかって完成させてきたものが、現在においてはあっという間に同等の完成を成し遂げてしまい、更に急速に進化をし続けているという現実を、改めて空手流派の師範格は認識する必要があるということでもある。

  沖縄唐手が師匠から弟子へと口頭伝承で受け継いできた「稽古」から、今やコンピューターの発展に伴うデジタル化したビデオや参考文献物が記録として山積していることから、これから空手を志す者たちはこれらの山積した文献の中から取捨選択して研究し、自分の体格に合った得意技を身に付けて、これを繰り返し「練習」することでもって、現代空手を進化させていくべきものだと言える。

  唐手から発祥した「型」は、家元制度のために禁句になっている「空手の演武(忌憚なく言えば武踊)」として捉え、花柳流の舞踊や歌舞伎やお能に見られる「舞いの間」や「舞の決めどころ」を、同じように空手でも理想的な「間」や「決めどころ」動作としての伝統武術芸術として捉え、「型」を「稽古」することが望まれる。この点においては、師匠から弟子へと口頭伝承して体得させる「稽古」と言えるものだからだ。
  「型」の分解も、恐らくはこのようにして出来上がったものであろうと想定して、演武の説明として理解することにはある。また、約束組手も理想的な究極の空手動作として作った唐手の演武として「稽古」するものであるとも言えるからだ。

  空手の「組手」は、「型」演武の理想的な動作を現実的に「組手」動作では思うように出来ないことを理解して、現実的に考え、「型」にある決め技は『稽古』で体得する理想的なものとして捉え、「組手」では自らが対応できる技の習得と研修を重ね、自分流に技を構築し、それを繰り返し繰り返し『練習』することにあるのだということを理解する必要がある。

  現代空手の『練習』では、組手において変幻自在融通無碍の動きをもって相手に対応するという能力を身につけて、これを繰り返して熟練し習得することにある。また、現代空手では、組手の技術習得とその能力の向上を護身の技術としても習得する必要がある。


  したがって、『稽古』では、古(いにしえ)を稽(考)え、組手技術に裏打ちされた発祥当時の唐手の本質に迫り、『練習』では、自主的な創意工夫で組手技術を習得することにある。

  「稽古」と「練習」でもって殺傷能力のある伝承唐手の宝刀を身につけた際には、例えこの宝刀を持ち得たとしても非常時以外にはこの宝刀を抜かず、『自らは危険を冒さない、無用な災難に遭遇しない』という、剛柔流開祖が謳う通りに『人に打たれず、人打たず ことなき(事無き)をもと(基)とするなり』の無事長久の哲学による空手道を実践することにある。
そして、「万が一にも何事かがあれば恐れずに“虎穴にいる”気迫と勇気を持つ」ことも必要だが、出来るだけこのような「何事かの災難には遭遇しない」ように心掛けることをより大事なこととして、相手につけ入られる「スキを見せない」、「スキを与えない」ことを最も大事なこととして、ここでも無事長久の哲学を貫くことであると言える。

...こうして、自らは揉め事や荒事に陥らずに、感情を押し殺し、相手を尊び互いに尊敬と信頼の念をもって自らを育むことをもって、唐手から空手の「道」という理念が生まれるということを、この殺傷能力のあった古典武術の唐手を「稽古」でもって学び、心の精神をも強く鍛錬して心身の充実を図り、現代空手でもって独創性のある「練習」で技を確立し、生涯空手としての「道」を継続していくことにあるとも言える。
  武道とは「一生をかけて、その道を追求していく」という精神修養でもあるからだ。


BACKNEXT

inserted by FC2 system