日本大学藝術学部剛柔流空手道部OB会掲示板NUGK OPINIONS

NUGK OPINIONS

~ 空手という武道を通して何を最終目的とするか ~

田中 元和Genna Tanaka

≪ 4.「稽古」と「練習」の違い ≫


4.空手における『稽古』と『練習』の違い

...『稽古』と『練習』の違いを例えで示すと、稽古は、「稽古をつけてもらう」とは言うが、練習は「練習をつけてもらう」とは言わない。それは何故なのか。

  『稽古』とは、この漢語の「稽」は「考える」という意味で、原義は遠く「古(いにしえ)」の事柄に思いを馳せ、先人の考えを理解し道理を学び考える。そこから、「古い書物などを読んで学ぶ」といった意味も派生し、武芸・芸事などを習うことや学問を習うことの意味で用いられるようになった。
  空手の稽古とは、唐の手(ティー)から生じた唐手発祥の格闘原点を考え調べるということになる。更に、稽古の場合は弟子が『師匠や師範』と呼ばれる人から教えてもらう、習うことでもある。したがって、「稽古をつけてもらう」という所以がここでは生まれる。

  伝統的に「師匠と弟子」の関係であれば教えてもらうことから「稽古」と言える。
その他、「稽古」には基本となる型、規範、手本があり、それに近づくための努力、研鑚という意味も含まれる。そのために伝統的な武術芸能などは、「練習」とは言わずに「稽古」と言うことになる。 

  『練習』とは、規範となるものがあってもなくても自らの技能を高めるためにするという意味にも使われ、独創的な要素を秘めているとも言われる。
また練習とは、学問や、武道を含めたスポーツなどが上達するために先人から習うより、先人の技術を見て自ら学び、「練」りに「練」って自分用に技術を向上するために繰り返して、「習」得することになる。
  空手の練習とは、特定の行動をより合理的に行うために、あるいは特定の習慣を形成するために一定の行動を自ら反復して行うことにあると言える。つまりは現代空手で成すべきことは何かを合理的に考えて、自ら繰り返し習慣体験をして体得することで、唐手格闘の原点から現代空手への移行を合理的に完成させて目指すことにあるとも言える。

したがって、
  『稽古』は、古(いにしえ)からの伝統的な技術を「師匠/弟子」の関係で教えてもらい習うことだが、更にその技術向上を発展的に目指すというよりは、古くからの伝統技を保持する意味合いの方が強い。
  『練習』は、古典を参考にしながらも、より技術を向上するために自ら創意工夫し、それを試みて発展的に更新しようという意味合いが強い。


  日本人的な考え方の『稽古』と『練習』の違いとは、
  「稽古」とは、精神を鍛えて内面的なものを向上させることと言われ、「練習」とは、主に肉体を鍛え技量の強弱を計ることと言われてきたが、究極的には、「練習」は「稽古」同様に精神力を鍛え、内面的なものをも向上させることから、一概に日本古来の「稽古」のみにそれがあるとは言えず、現代においてはその精神や内面の向上に関して、「稽古」と「練習」を線引きして区別することは出来ない。

  一般に相撲や柔道などは「稽古」といい、野球やサッカーなどは「練習」と言う。
  「稽古」に比べて、「練習」は何にでも幅広く使えるということでもある。ピアノの練習(稽古)、ゴルフの練習、柔道の練習(稽古)、相撲の練習(稽古)と、「稽古」ではなくて「練習」と言いたければ言えるということにもなるからだ。


  敢えて言うならば、
  「稽古」における空手の「型」は、中国拳法から沖縄唐手として伝承され、今日に至るまで全くその形態を変えることなく、それを「稽古」によって師匠から弟子へと受け継がれ維持されてきたものだといえる。したがって、この古典の「型」は、現代空手に即した「型」へとその形態を日進月歩して改良改善されてきたものではないことから、本来であれば唐手の「型」は伝承伝統芸術の演武として捉えられるべきものである。
これを現代空手に合った「型」とするためには、約束組手から考案された古典の伝承型を参考にしながらも、実戦組手の「練習」から編み出して「型」に相当する「攻めのパターン」や「守りのパターン」となるものを、今後において空手流派の宗家や師範格は定形化する必要があるということでもある。


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